このところあらゆる機会を通じて、私たちの目や耳を通じて触れる言葉は、他を罰することジャッジすることがとても多く、それらについて論理立てて話したり書いたりすることが知的な振る舞いのように思われています。
誰かのひいた定義や客観的と称する根拠をもとに、それらの言葉がはびこっていますが、いったいそのことと他人の考えに乗っ取られることとの違いはなんでしょうか。少なくとも私には違いが見えません。
いったい自分の語っている言葉は、本当に自分から生まれているのだろうか。そのためにはどうすればいいのか。 言葉は脳だけで考えられたものではなく、総身で感じられる中で生まれてくるものです。
つまり生きていること自体がひとつの思考です。頭だけではなく体すべてで考えるとはどういうことなのか。
そんなことについて、みなさんと考えたいと思っています。
尹 雄大
筆記用具だけでかまいません。身体を多少動かしますが、ふつうのかっこうで大丈夫です。